「あーさっぱりした」
部屋の中で、全裸でうろつく不審な男。
この家の主である彼は、普段ならこんな大胆な格好で部屋をうろついたりはしない。
「今日は特別だよーっと」
上機嫌な男は、冷蔵庫からビールを取り出し、二人がけのソファのど真ん中を陣取った。
「コップは……いいか、このまま飲んじゃえ」
プシュと小気味いい音が部屋に響き、男は喉を鳴らしてビールを一気に飲み干す。
「っつぁぁぁああ!たまんねぇ」
早々に空になったビールの缶を、飽きてしまったおもちゃのように床に投げ、男はソファにゴロンと横になった。
その時である。
ピリリリリリと聞き慣れない大きな音が部屋に響き渡る。
あまりの音の大きさにびっくりした男が何がなんだかわからないでいると、二度、三度と同じ音がなった。
「そういや、この家に越してきた時に、電話を引いたんだっけか」
半年前に引っ越して来て以来、初めて鳴った電話に驚きつつも、「ハイハイ今出ますよー」と言いながら男は受話器を手に取った。
「もしもし?」
誰にも教えていないはずのこの番号に電話がかかってくるとすれば、半年前に結婚した妻のユウコか、セールスの類だろうと思った男は、フワフワした頭のわりには冷静な判断の元、名前をあえて名乗らなかった。
「あの!金田さんですか!?」
「そうですけど」
受話器から聞こえた大きな声に少し苛立ちながらも、男は素直に質問に答えた。
「あの!私!ユウコの同級生のタナカアキコと言うものです。さっきまでユウコと一緒にバーで飲んでたんですけど、移動中にユウコが車にはねられて、それであの、アタルさんですよね?とにかく箱無病院まで来ていただけますか?」
想像以上の情報量が、アタルと呼ばれた男の脳内に流れ込み、アタルは真っ先にビールなんて飲むんじゃなかったという的外れな感想を抱いた。
「あ、えーとアキコさん?ユウコがいつもお世話になっています。それでユウコがなんだって?」
ほとんど聞き取れていたはずのことを、アタルは何故か聞き返してしまった。
「だから!交通事故で!とにかくはやく箱無病院に来てください!」
冗談でも聞き間違いでもないとわかったアタルは、青白い顔をして「わかりましたすぐ行きます」と早口で伝え、玄関へと走り出した。
玄関のドアを開ける直前、アタルは自分が服を着ていないことを思い出す。
慌てて部屋へ戻ったアタルは、パンツを履き、部屋の隅に置いたままになっていた服を掴んで、素早く袖を通した。
「すみません!大至急箱無病院まで」
大通りに出て、タクシーを捕まえたアタルは、移動中の車内であることに気づいた。
「靴下はいてきてないわ、というか、財布もスマホも何も持ってないし、鍵もかけてない」
急いでいたから仕方ないかと自分に言い訳しながらも、一気に心細くなった気持ちを紛らわせるように、ポケットの中を探った。
ポケットに入っていたのは、三ヶ月前にユウコと行ったレストランのレシートと、タバコの箱だけだった。
「そういや、あの時、タバコを辞める辞めないでユウコと大喧嘩したんだったな。それであれ以来タバコをやめたんだ。」
小さな声で独り言を言いながら、アタルはタバコの箱を開ける。
箱の中には1本だけタバコが残っており、そのことがなぜかアタルを一層寂しい気持ちにさせた。
「つきましたよ」
無口なドライバーから病院に到着したことを告げられ、アタルは我に帰り、そして青ざめた。
「あ、お金……」
アタルは無賃乗車していたのだ。
「いいですよ、お客さんすごい格好だし、たぶんそうじゃないかと思ってました。また今度乗ってもらったときにでも払ってください。」
タクシーの運転手はこちらを見ないままそう言って、アタルが座る後部座席のドアを開けてくれた。
「ありがとうございます!ありがとうございます!」
アタルは何度も礼を言うと、病院の中へとかけていった。
「あの、アタルさんですよね?」
玄関口で息を切らしているアタルに、どこか聞き覚えのある声がかけられた。
「はい…もしかして……アキコさん?」
アキコは小さく頷くと、こっちですとアタルに促し、集中治療室の前まで誘導した。
「まだ時間がかかるみたいで……」
アタルはその言葉に絶望し、助かるんですか?と小さな声を漏らした。
「先生の話だと、五分五分だっていってました…」
気まずい沈黙が二人を包む。
二人はどちらともなく近くのソファへと移動した。
気まずい沈黙を破るようにアキコは言った。
「ユウコのスマホ、ロックが掛かってて、それで手帳に書いてあったご自宅の電話番号に電話したんです。」
「そうだったんですね、ありがとうございます。」
アタルは少しアキコの方を向くと、小さく首を縦にふり、礼を言った。
静かな病院の中で、二人はそれ以上の会話を交わすこともなく、時間だけが過ぎていく。
「あの、私そろそろ」
ずっと床の一点を凝視していたアタルは、アキコの声にはっとして、頭を少し振ってからアキコの申し訳なさそうな顔を見た。
「あ、そうですよね、ありがとうございました。」
窓の外に目を向けると、ほんのりと空が明るくなり始めていた。
「これ、一応私の名刺、お渡ししておきますので、ご連絡いただけますか?」
アタルは名刺を受け取り、それをポケットにしまう。
「必ず…連絡します。」
その言葉を聞いて薄く微笑んだアキコは軽くお辞儀をし、名残り惜しそうに集中治療室のドアを一瞥した後、下唇を噛み締めて歩き出した。
ひとりになったアタルは、キリキリと痛む胃をさすりながら、深い溜息をついた。
集中治療室のドアは固く閉ざされ、まだ開きそうな気配もない。
「そういえば……」
そういって、アタルはポケットからタバコを取り出す。
「ちょっと一服でもしないと、やってらんないね」
そんなことをいいながらアタルはソファから立ち上がり、近くを通りかかった看護師に声をかけた。
「あの、表でタバコ吸っても大丈夫ですかね?」
「すみません、当院の敷地内は全面禁煙なんですよ。タバコをお吸いになる方は、皆さん向かいのコンビニへ行ってらっしゃるようですが」
それを聞いたアタルは「そうですか、ありがとうございます」と答え、向かいのコンビニまで歩いていくことにした。
「あー、結局3ヶ月しかもたなかったな」
明るいコンビニの店内を背に、アタルはタバコを取り出し、口にくわえた。
「ユウコに怒られるかな……また、怒ってくれるよな?」
レストランでの喧嘩を思い出しながら、アタルは左手をポケットに突っ込んだ。
しかし、結局、アタルはユウコに怒られることはなかった。
3ヶ月後……。
「退院おめでとう、ユウコ」
アタルの目の前には、元気なユウコの姿があった。
「うん、心配かけてごめんね、もう大丈夫だから。」
笑顔でそういうユウコの顔がやけに眩しく感じ、アタルは視線をそらす。
「なぁに、なにかやましいことでもあるのかな?アタルくん?」
視線をそらしたアタルを怪しんだユウコは、悪さをした小さな子供に語りかけるように、アタルに問うた。
「何もないよ!久しぶりだったから」
少し顔を赤くしながら、焦って答えるアタル。
それを見たユウコは、何か隠し事があるのではないかと勘ぐった。
「もしかして、禁煙やぶったんじゃないでしょうね?」
語気を強め、物理的に距離を詰めるユウコ
「いや吸ってない!吸ってない!ユウコが事故にあった日は危なかったけど、結局吸わなかったんだ」
「ほんとでしょうね?嘘だったら許さないよ」
ユウコは、アタルが誘惑に弱い性格だということを知っており、簡単には信じることができないようだ。
「本当は吸おうとしたんだけどね、吸えなかった。」
それを聞いたユウコは「なんで?」と不思議そうな顔をした。
「だって○○○から。」
アタルがタバコを吸わなかったのはなぜ?
わざわざコンビニ前まで行ったアタルは、なぜかタバコを吸わなかったそうだ。
それはなぜか考えてみましょう。