「あなたに、私の気持ちがわかるはずないわ!」
普段あまり感情を表に出さない京子だが、この時ばかりは黙っていられなかったようだ。
鋭い目で和夫を睨み付けながら、肩を上下に揺らしている。
「わかるよ、だってあの時|
室内に響いていたタイピング音が突然止まる。
それに気まずくなったのか、扇風機は目を逸らすように首を振った。
「だめだ、何かが違う」
扇風機のブオーという音に、男がバックスペースキーを連打する音が重なり、蒸し暑い室内は悲痛な二重奏に支配されていた。
「……。」
男はそのまましばらく頭を抱えていたのだが、おもむろに立ち上がると、外出の準備を始める。
どうやら気分転換に最寄りのカフェに移動するようだ。
跳ねた髪の毛を隠すように帽子を被り、リュックサックを背負って家を出る。
眩しい太陽に顔をしかめながら、男は上の空で歩き始めた。
歩いている間も男の頭の中は、先ほどまで書いていた小説の事でいっぱいになっている。
時にブツブツと独り言を言いながら、気づけばカフェのドアを開くところまで来ていた。
店内に入り、『Café TRIANGLE』と書かれたマットの上に立った時、男の思考はようやく現実に戻ってくる。
どうやら、寒いくらいに効いているクーラーのおかげで、頭も少し冷えたようだ。
遠目に見える喫煙席が空いているか確認し、カウンターの列に並ぶ。
注文はすでに決まっているようで、メニューには一切目をやらず、店内の客や、カウンターで接客する店員の様子を観察し始めた。
「あー、今日はハズレだな。」
カウンターの青年を見て、男は思わず声を漏らす。
どうやら、男にはお気に入りの店員がいるらしく、今日はその姿が見えないのだ。
「つぎのおきゃっさまどぞー。」
青年のやる気ない声に導かれ、男は一歩前に出る。
レジ横のミルクとスティックシュガーを手に取りながら、小さな声で注文をした。
「コーヒーひとつ。」
「……。はい、サイズはどーされますかー?」
「Mで。」
「Mっすねー、270円す。」
男は財布から100円玉を3枚と、10円玉を2枚取り出し、カウンターに置く。
それを見ていた店員は、思った以上に機敏な動作で、お釣りの50円とレシートを差し出してきた。
「つぎのおきゃっさまどぞー。」
男はお釣りとレシートをポケットに突っ込み、カウンター横でコーヒーが乗ったトレーを受け取ると、灰皿を乗せ、喫煙席に向かって歩き出した。
ありがた迷惑なほどよく滑るスライドドアを慎重に開き、左隅にあるお気に入りの席へと向かう。
男は席に座るとすぐにタバコを取り出し、火をつけて「フ―ッ」と白い煙を吐き出した。
その時、男は「ん?」と言いながら首を傾げる。
湯気の上がるコーヒーカップを持ち上げた男の頭の中には、ひとつの疑問が浮かんでいたのだ。
「なんで、ホットコーヒーってわかったんだ?コーヒーとしか言わなかったのに。」
カウンターにいた店員は、初めて見る顔だったし、今日はかなり蒸し暑い日のため、アイスコーヒーを注文する客の方が多いはずである。
それにもかかわらず、カウンターの青年は男の心を読んだかのように、ホットコーヒーを提供してきたのだ。
「あなたに、私の気持ちがわかるはずないわ!」
先ほどまで書いていた小説に登場する女のセリフが頭をよぎる。
男が無意識にそのセリフを反芻していると、頭の中で歯車が噛み合う音がした。
「キタキタ!これだ!この感じ!」
男は突然ハッと表情を変え、急いでノートパソコンを取り出す。
店内の笑い声や手を叩く音に、タイピング音が重なり、男はまるでフラメンコを踊るかのような軽快なリズムで言葉を紡いだ。
「あなたに、私の気持ちがわかるはずないわ!」
普段あまり感情を表に出さない京子だが、この時ばかりは黙っていられなかったようだ。
鋭い目で和夫を睨み付けながら、肩を上下に揺らしている。
「わかるさ!だって俺は……。」
和夫は、そこまで言っておきながら、少し俯き加減になって言葉を飲みこんでしまう。
「なんで、わかるのよ。何がわかるっていうのよ!」
「だって、俺は!いつも、お前のことばかり見ていたんだ!」
2時間後、難航していた小説がついに完成した。
男は帰り支度をして、席を立つ。
「ごちそうさま!ありがとう!」
去り際、男はカウンターの青年に笑顔を向け、感謝の言葉を投げかけると、ご機嫌な様子で帰っていった。
カウンターで接客していた青年は、なぜ注文がホットコーヒーだとわかったのでしょうか?
アイスコーヒーなら、ガムシロップ。
ホットコーヒーなら、スティックシュガーを使いますよね?
青年は、男がスティックシュガーを手に取ったのを確認し、注文がホットコーヒーだと思ったようです。